喪失の痛みを語る


死別の経験、特にその痛みが比喩としてどう表現されているのでしょうか。

もちろん死別体験者の方は「そんなこと説明してもらわなくても痛みは知っている」「比喩に意味があるのか」と感じられると思いますが、喪失をどのような経験や痛みに例えるのかというのは非常に興味深い問題で、ただ「痛い」というだけでなく「どのように痛い」と表現することは「痛みとの付き合い方」とも深い関係があるのではないかと考えています。

最近読んだ「妻を看取る日~国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録~」【著者:垣添忠生(新潮社 2009年 1300円)】には外国の文献の引用として「サメに襲われて手足をもぎとられたような感じ」「体のどこかに深い穴が開いて、そこから血が滴っているような感じ」といったようにシャープな痛みから鈍痛のような痛みまでが表現されています。さらに著者は医師であることから、妻の死のショックからの回復を傷の治癒になぞらえてこう的確な表現しています。

「時間と共に血は止まるが、傷を埋めるために盛り上がってきた柔らかい肉芽(にくげ)にちょっとでも触れれば、また血が噴き出してくる。そのうちだんだんと傷口に薄皮がはり、皮が厚くなっていく。そして、少し触れたぐらいでは傷つかなくなるという。」

また、親しい人の喪失を「片腕をむしり取られた感じ」など、四肢の切断に例える人もいるのではないでしょうか。
事故から目が覚めて足を失っていたショックと絶望。失われた現在と未来への希望。肉体の痛み。心無い周囲の人々。後悔。すぐ傷つき、他をねたみ、周囲の人の行為を受け入れられず怒りや苛立ちを振りまく自分と、そういった自分を情けなく感じる自分・・・。
近親者の死によるグリーフに非常に近い感情かもしれません。

面白いことに「この脚を失った青年の未来はどうなると思うか」という問いに対して、大多数の人は『前向きな未来』を描きます。自暴自棄になり、酒びたりになり、仕事も家族も失い・・・というような未来を迎えると考える人は(実際にはそういう人もいるはずにもかかわらず)ごく少数派です。例えば、私ならこんな未来がある、と書くかもしれません。

彼は脚を失い、一時は狂ったように周りの人間に当たったが、時間と共に肉体の痛みは徐々に去り、リハビリによって肉体の可動性が回復すると共に、周囲の人間の気遣いを認めるようになり、ある日「ああ、左脚はなくても結構生きていけるものだ」と感じるようになった。好きだった山登りはもうできなくなったが、いまでは山の写真を撮ることを楽しみにしている。

この青年の人生は、本人が以前に想像していた人生とは全く違うものとなりましたが、このように、実生活での痛みが通常回復に向かうように、グリーフにも再生への道があります。実際に今グリーフを経験している人にとって「再生」などは思いもよらない事でしょう。しかし、先に述べたように、人間というのは『痛みのストーリー』に『回復のストーリー』を重ねるのが好きな生き物です。

人には内に秘めた再生の力があり、著しく困難な状況の中でも希望を見出そうとします。自分の痛みを語れば語るほど、そのストーリーは回復のストーリーであることを自ずから望み、『自分の折合いのつけられる、自分にピッタリくる再生のストーリー』となっていくのです。その第一歩が「痛みを自分の心情にあった表現で語る」事であり、再生の重要なステップであると考えられるのです。

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