ニコール・キッドマン主演「ラビット・ホール」を見て:やがてポケットの中の小石に変わる

年末に、遅ればせながら静岡でも「ラビット・ホール」の上映がありました。グリーフ・カウンセリング・センターの鈴木剛子先生に紹介された事、ニコール・キッドマン製作・主演、しかも以前ご紹介した、これもまた素晴らしい喪失に関する映画、「ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ」を監督主演したジョン・キャメロン・ミッチェルが監督、と期待していました。

この映画では、先ず、子供を亡くした親が、如何にすれ違い、傷つけあい、こう着しながら、その夫婦関係が「ゆっくりと死んでいく」辛さが心を打ちました。息子ダニーの思い出を胸に焼き付け、その思い出を大切に、何とか前に進もうと努力する父・ハウイー。面影から抜け出せずにいながら、同時にその面影に苦しめられ、息子の痕跡を拭い去ろうとするような母・ベッカ。
ベッカはどこを見てもダニーの面影を見る辛さに、洋服を処分し、持ち物を物置に片付け、家を磨き上げ、「指紋まで消し去ろうと」しているように見えます。ハウイーは子供とのビデオに微笑み、ダニーと強く繋がったままでいたい。そんな二人の関係は軋み、ほつれていきます。特に夫には、妻が息子の存在そのものを忘却の彼方に追いやろうとしているように見えて仕方がありません。この二人のグリーフの表現は複雑で、俗に言う「男性的」「女性的」といった単純な切り口になっていない事がかえって真実味を感じさせます。冷静に妻を支えたい気持ちと、妻の行動が自らを傷つける苦しみ、何をしても「良くはならない」停滞感が行き詰まりを感じさせます。

そしてもう一つの見どころがベッカとベッカの母の和解でしょう。ベッカの母も成人した息子(ベッカの兄)を亡くした経験をしており、「共に息子を失った経験者」としてベッカと語ろうとするのですが、ベッカにとっては30を過ぎて麻薬の打ち過ぎで死んだ兄の死と、幼くして罪なく亡くなった自分の息子の死を同じように捉えることなど不可能に思えます。しかしある時、ベッカは母に聞きます。「この痛みはいつか消えるのか」と。母は答えます。

いいえ、無くなる事はないだろうね。少なくとも私からはこの11年間、無くなってはいないよ。
ただ・・・変わっていくわ。
上手くは言えないけどね、そのつらさの重さと言ったらいいのかしら。(押しつぶされそうな重みが)耐えられる重さになる時が来るのよ(そして)その下からはい出る事の出来るようなものになり、そして持ち運べるようなものになる。ポケットの中の小石のようにね。たまには忘れてしまう事もある。でも、ふとポケットに手を入れるとそれはそこにあって「ああ、やっぱりここにあるんだ」って思う。酷い気持ちになる事もあるけど、いつもってわけじゃないの。それを好きになるって事じゃないけど、それは息子の代りにそこにあるわけだからさ・・・無くなってしまっては欲しくないわけ。そうしていつも持ち運んでいるわけ。無くなりはしないけど・・・まあ、なんとかやっていけるようになるの。

これにベッカは静かに頷き、母親の悲しみのストーリーは共有され、和解の糸口をつかんだように感じられます。

そしてこの映画にはもう一つの和解があります。ベッカは息子の交通事故の運転手の高校生ジェイソンと偶然会い、公園で話をするようになります。事故の原因は息子ダニーの飛び出しによるもので、少年に非はありませんでした。その中で、ベッカはジェイソンも事故を起こし、子供の命を奪ったことで傷ついている事を知ります。一つの不幸な死を真ん中にして加害者と被害者はお互いをいたわり合い、静かなシンパシーを共有していきます。少年の言うパラレルワールドの話はやや子供っぽいと私は感じましたが、ベッカにとっては一つのインスピレーションとなったようです。

母との和解、そして少年との和解とインスピレーションを通じて、ベッカはその和解の輪を広げていく・・・少なくともその予感を感じさせる形で映画は終わります。夫、事故後に自分を避けていた友人、妹、そういったメンバーとの新たな関係を始めよう、その意思を伝えるかのようにベッカはホームパーティーを計画し、喪失を日常生活の一部に取り入れる第一歩を始めるのです。

あらすじ
郊外に暮らすベッカ(ニコール・キッドマン)とハウィー(アーロン・エッカート)は、愛する息子が犬を追いかけて道路に飛び出し、交通事故にあい失う。残された両親はその死をめぐる感じ方にずれが生じ、夫婦の関係もぎこちなくなっていく。そんなある日、ベッカは車を運転していたティーンエイジャーの少年と遭遇し、たびたび会うようになる。一つの死を違う立場から見つめる二人が出会う事で、ベッカと少年は自らとの和解の糸口をつかむ。

いいえ、無くなりはしないけど、変わっていくわ。

(どんなふうに?)

上手くは言えないけどね、その重さと言ったらいいのかしら。耐えられる重さになる時が来るのよ。その下からはい出る事の出来るようなものになり、そして持ち運べるようなものになる。ポケットの中の石ころのようにね。たまには忘れてしまう事もある。でも、ふとポケットに手を入れるとそれはそこにあって「ああ、やっぱりここにあるんだ」って思う。酷い気持ちになる事もあるけど、いつもってわけじゃないの。それが好きになるってことじゃないけど、それは息子の代りにそこにあるわけだからさ・・・亡くなってしまっては欲しくないわけ。そうしていつも持ち運んでいるわけ。無くなりはしないけど・・・まあ、大丈夫になるわけ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です