家族との別れ:赤塚不二夫の死を考える


遺骨からダイヤモンドを製作するというような仕事をしているので、普通の人よりずいぶんと死を近く感じています。自分はどう死ぬのだろう、どのような形で家族と別れを告げるのだろう、と考えます。
こうであって欲しい、というささやかな「希望の死」の姿というものもあります。あと15年か20年後に、自分の死後の家族の生活をそう心配しないでよいような状態で病になり、できれば妻にお別れを言う時間をもらって死ぬ。まあ、それくらいの希望で、人様から「望みすぎだ」と言われるようなことはないでしょうが、考えてみるとこれは、殆どの人が漠然と「平均寿命位生きて、病院で死を迎える」と考えているのと同じことのようです。
しかし、実際私がお会いするダイヤモンドのご依頼者さんのお話を聞けば、この「ささやかな望み」もしばしば実現されない事がわかります。時に死は交通事故のような暴力的な形で訪れたり、健康で強靭な人があまりにも早く死を迎える事もあるのです。
仲の良い夫婦であればそうであるほど、この死による別離がずっと来なければいい、と感じるに違いありませんが、実際は愛するパートナーとの別離は人間の一生の中では避けられない事のようです。ほとんどの場合、必ずどちらかが遺される側になってしまうのです。
私と妻の間では、出来れば妻が先に死ぬ方がいい、という事になっています。一緒に死ぬのは中々難しそうですから、どちらかが遺されるなら、生き延びるのが上手そうな方が残ったほうが良いと考えているのです。妻が私の死に適応していくより、私が妻の死を受け止めるほうが上手そう、そういう考え方です。なんだか私が妻の事を大切に思って居ないみたいで、失礼な話だな、とも感じますが、大体、私もグリーフカウンセラーなので、死別のグリーフは何とかできるだろう、そういう事になっているのです。現実的には、本当は私の方がずいぶん年上で、不健康な生活を送っているので私の方が先に死ぬはずなんですが…

このことを考える時に私はいつか聞いた赤塚不二夫さんの死の事を考えます。
赤塚不二夫さんは1961年、最初の妻・登茂子さんと結婚。1965年には長女りえ子さんが誕生しますが73年に離婚しています。
1987年ころには、赤塚さんはアル中状態に陥っていました。当時アシスタントであった再婚相手、眞知子さんは献身的に看病をしていました。その眞知子さんに赤塚との結婚を勧めたのは最初の妻、登茂子で、同年の結婚記者会見には登茂子さんと、りえ子さんも同席したそうです。
当時を物語るエピソードが「生きがいは赤塚不二夫」”(読売新聞2006.8.22)には前妻、子供、眞知子さんの特殊な関係を物語る一文があります。

「先生、眞知子さんを籍に入れたら?」。1987年、不二夫さんに再婚を強く勧めたのは、73年に離婚した前妻の江守登茂子さん(66)だった。「その時、『本当にいいのか?』って。ずっと、私に気兼ねしてたんでしょう。でも、眞知子さんなら私もうれしいし、大丈夫だって思ったから」(登茂子談)
不二夫さんの数多い“恋人”の中で、元スタイリストの眞知子さんだけが最初から違った。アルコール依存症で入院した不二夫さんを付きっきりで看病し、当時、仕事が激減していた漫画家のため、実家から借金までした。登茂子さんを「ママ」と呼んで慕い、長女のりえ子さん(41)を実の子のようにかわいがった。そのことで登茂子さんが感謝すると、「何よ他人みたいに! 私の娘でもあるんだからさ!」と笑った。

眞知子さんは『時に激しいケンカもしたというが、「生きがいは赤塚不二夫」と語るほど、夫とその才能を誰よりも愛した。』といいます。
2002年4月、赤塚さんは検査入院中に脳内出血を起こし倒れ、一切の創作活動を休止。2004年ころからは植物状態でしたが、眞知子さんはそれを明るく、献身的に、38冊にも上る「介護ノート」をつけながら看病してました。
ところが、その眞知子さんが2006年7月12日、クモ膜下出血のため56歳で急逝します。(葬儀はりえ子さんによって執り行われた)
そして、2年後の2008年8月2日、赤塚さんは肺炎のため順天堂医院で死去しました。72歳。後に、赤塚の最初の妻、登茂子がその3日前の7月30日に死亡していたことが発表されます。

この赤塚さんの死の素晴らしさ、というか特別さは、赤塚とその妻(たち)は、お互いの死を知らずに死んでいったという事です。赤塚さんが登茂子さんの死後3日で亡くなった事も、人を喜ばせるのが好きだった赤塚が、自らの死で登茂子を悲しませることないように、登茂子さんの死を待っていた、そんな風にも思えるのです。
赤塚さんの自伝的著、「これでいいのだ」によると、赤塚さんは自らの母の死に際して絶叫し、母はそれで一時蘇生したといい、そして母の数年後、父の死に際しては、がんに苦しむ父に優しく引導を渡したとの記述があります。そして、このことを振り返り、赤塚は「ぼくは死に際に、誰かに呼びもどされるのかな、それとももういいだろうと念を押されて行くのかな……。」と言っています。

赤塚さんは通常では避けられない、夫婦の死別さえも独特な軽やかさで飛び越えていきましたが、彼の死はこのどちらであったのでしょうか。私には、もういいだろうと念を押された死のような気がしますが、赤塚さんはただ「これでいいのだ」と言いそうな気がします。死は答えのない問いを投げかけ続ける物ですね。

余談になりますが、私はこの死に方が本当にうらやましくて、「お互いに知らずに死ぬことのできた幸せな例」として、この赤塚さんの死を妻に話をしたことがあります。「そうね、素敵ね。でもそうなるためにはずいぶん徳を積まないと無理なんじゃないのかしら。私達には無理よ。」
徳…ね。確かに常人には難しそうです。やはり凡人は、どちらかが先に逝かないといけないんでしょうね。

参考文献
ウィキペディア:赤塚不二夫、極東ブログ:[書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)、トルニタリナイコト:それぞれの最後

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