生を引き継ぐ:金子哲雄さんの遺したもの

 

僕の死に方 エンディングダイアリー500日

僕の死に方 エンディングダイアリー500日
金子哲雄 著
小学館

昨年流通ジャーナリストの金子哲雄さんが亡くなって刊行された「僕の死に方 エンディングダイアリー500日」が話題になりました。金子さんが若くして亡くなった事、また、自分の葬儀やお墓の手配を自分で整えていた事が、終活や葬儀関連業界だけでなく、一般の人々に興味を持たれたようです。
金子さんの著作や、出演したテレビ番組などはほとんど見た事が無いので、生前の金子さんがどういう人なのかは知りませんでしたが、「僕の死に方」を読んでみると、その明快で優しい語り口と、ストレートな、迷いのない思考から聡明な人であることが良く解ります。
期限付きの生を与えられた人が、限られた時間の中で、自分の死を見つめ、死の準備を着々と自分で進めていく。淡々とし過ぎているようにも見える。遺書を書き、葬儀の手配をしつつ、お通夜に来てくれる人にとって交通の便が悪くないかを心配し、そこで食事は何を振舞うかまで自分で考えて決めていく。会葬の礼状も自分で書いて用意した。いつ死ぬか分からないから、いつ死んでもいいようにしておく。そのところどころに辛い思いや、周囲の人への心遣いが垣間見えます。仕事をここまで優先するところなど、個人的には共感できない部分もありましたが、死に向かう準備としては「私もこのくらいのことが出来れば上出来」と感じる立派な物だったと思いました。
この「僕の死に方」の後半は、死後、金子さんの稚子(わかこ)夫人が書かれたあとがきで、こちらが読みごたえがありました。「文章の上手な聡明な人だなぁ」と思っていたら、稚子さんによる「死後のプロデュース」が刊行されました。金子さんがなぜあそこまで準備をすることが出来たのか、その中で金子夫妻の見出した死生観についてが語られた本です。
稚子さんはこの本の中で、「死への準備は、死と言う一点の「終わり」に向かって行われるものではなく、遺される者への引き継ぎだ」と考えていると書いています。仕事の中で後任者に引き継ぐように、子供に新しい仕事を教えるように、自分の存在と役割を死者が生者に引き継いでいくのだと…。だから、金子さんの死への準備は、終局へのまとめではなく、単に金子さんが金子さんらしく生きるという生の続きだったと言うのです。

そして、もしも自分か死んだら……と考えられるのなら、引き継ぎは、自分のために行うものではなく、残される人のために行うものだということも、きっとすぐに理解できるでしょう。

しかし同時に、引き継ぎは、日ごろから「引き継ぎ、引き継がれる信頼・人間関係ができ上がっていて初めて完成するもの」とも言います。それなしに、歳をとってきたから、病気になったからとあわてて準備をし、エンディングノートを書き記しても、それはただのメモにしか過ぎない…、と雅子夫人は書いています。

亡くなった人の存在を確認し、その人のために、あるいはその人になり代わって何かに取り組めるという喜びを得られる行為。そして、その前向きな力を大切な人に残すことができるという行為。それが引き継ぎといえるのかもしれません。

そういった引き継ぎが上手く行くことで、稚子さんは、金子さんの存在を強く感じ、死は生の一部である事を知り、「生前からの関係が、そのまま死後も続いていく」と感じています。
しかし同時に、こういった形の引き継ぎが満足にできるためには、死がある程度予見された物である必要(癌など)があります。突然のお別れを迎えた人々はどうなるのか。稚子さんはそういったお別れを迎えた人にも心をはせてはいますが、「まだ明確な答えが無い」と正直な心情も打ち明けています。それでも稚子さんは死者は私達に働きかけている、手を伸ばしている事は確実だ、と言います。自分の悲しみにとらわれず、死者の声に耳を傾け、死者が何を望んでいるのか、差し伸べられたその手を握ろう、と呼びかけています。

亡くなったその人が一体何を見て、何を思っていたのか。自分の立ち位置を変えて、その人の視点を獲得できた時、たとえ相手が亡くなっていても、新しく引き継ぎする関係を結ぶことができる可能性を感じます。そしてそれが、亡くなった人の強い願いではないかとも思うのです。

稚子さんはこれからは医療問題についても訴えていきたい、と言っているそうです。金子さんが稚子さんに引き継いでいったものは、まだまだ続くのでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です